仁義などの五常について

 

鍼灸師や東洋思想に興味のある人は、仁義という言葉を耳にしたことがあると思います。それを大切にするということですが、実際に仁とは?義とは?ということになってしまいます。ここでは、東洋医学でも紹介される五常として朱子学(新儒学)ではどのように考えるのかという解釈をご紹介します。

 

渾然一体をわける

東洋思想の本質

仁・義・礼・智の四者は二つに分けると仁と義の二つになる。たとえば春夏秋冬の四季は分けると陰陽の二つだけになる。春と夏は陽に属し、秋と冬は陰に属している。東洋思想でいう陰陽論は単なる二分法や足して2で割るという平均を求めるものではありません。陰陽のなかにそれぞれ陰陽があり、入れ子のように際限なく分かれ、やがて森羅万象へと広がっていくのです。

陰陽という抽象的な概念から、分化していくと具象的なものへ行き着きます。

役に立たないと思う人は、そのような分化していく流れが考えられないだけです。東洋思想的な視点を身につければ、自分の考えだけではなくさまざまな客観的な視点も手に入れることができるのです。

 

『易伝』に「四徳ノ元ハ、ナオ五常ノ仁ノゴトシ。偏言スレバ則チ一事、専言スレバ則チ四者ヲ包(か)ヌ」と言っているのだ。きわめて親切な教示であり、万古不易の論といってよい。

 

東洋思想の原則のひとつに「一事が万事」というものがあり、1つがわかれば敷衍してすべてがわかるし、すべてがわかると1つずつ個別で理解が進むということです。儒学においては特に「仁」というものの考え方を中心に議論が展開することが多く、それほど重要な考えになっています。

 

また陰陽五行の五行を学ぶとよくわかるのですが、五行だからといって、五分の一ではなく、それぞれ主体になったり、補助的になったり、中心になったり、これも単なる五分法ではないことに気づきます。だからといって、どれが大切かというのではなく、どれも大切なのですが、仁・義・礼・智・信のなかでも仁に集約されるように視点の変化も含めて理解していくとが大切になります。

 

 

五常を理解するために

 

色体表という五行をそれぞれの象意で分類した表があります。そのなかに五常として、仁・義・礼・智・信というものがあります。五徳という場合もあります。それぞれとても大切な概念なのですが、東洋医学を専らとする鍼灸師でさえ、穴埋めテストで答える程度の知識で役立てているかどうかは定かではありません。とてももったいないと思うので朱子学の説明から引っ張ってきました。

事柄についていうと、父子に親があるのが仁であり、君臣に義があるのが義であり、夫婦に別があるのが礼であり、長幼に序があるのが智であり、朋友に信があるのが信である。これは縦の関係から見た場合である。「父子に親がある」というと、当たり前に聞こえますけど、母親は我が子を特定するのは難しくないのですが、古代においては父親が我が子を特定するのは簡単ではなかったのです(今でもDNA鑑定とか少し複雑ですけどね)

古代では法律は婚姻の法によって社会基盤の基礎を築いたといいます。これこそ、誰の子かをはっきりさせるということから家庭や地域社会、ひいては国を整備していったのでしょう。それは法によるものではなく、仁(愛)によって築くものだという解釈で良いと思います。また、なかでも私の心に刺さったのは夫婦に別があるのが礼だというところです。男の横暴でも女の怠慢でもありません。お互いに距離を置くことが礼につながるというのです。今でも通じる内容ですね。

もし横の関係で見るならば、仁でいうと、いわゆる親・義・別・序・信が、みなこの心に具わっている天理のはたらきであるのは、また仁でもある。義でいうと、父子は当然親でなければならないもの、君臣は当然義でなければならないもの、長幼は当然序でなければならないもの、夫婦は当然別でなければならないもの、朋友は当然信でばければならないもので、それぞれが理として宜しきにかなっているのは、また義である。礼でいうと、親・義・別・序・信を行って節文があるのは、また礼でもある。智でいうと、この五者を明確に知っているのは、また智でもある。信でいうと、この五者を嘘偽りなく誠実に行うのは、また信でもある。

 

縦の関係として説明した次は横の関係としての説明です。

真心は愛であり、仁であると述べています。

当然という考えは義であると述べています。

当然ということをわかっていれば智であり、実行できていて信だといいます。

 

もしさらに混ぜこぜにしていうと、親を親として大切にするのは仁である。心から親を愛するのは、仁の中の仁であり、親を諌めるのは、仁の中の義であり、温凊定省という節文があるのは、仁の中の礼であり、良知のはたらきによって、誰でも親を愛することを知っているのは、仁の中の智であり、嘘偽りなく親に事えるのは、仁の中の信である。

親を諌めるのは仁の中の義だといいます。親だからといって盲信するのではありません。親のいうことに盲従していれば仁の中の義を欠く態度だというのです。なんでも親に道理を指摘するのではなく、その前提に親を大切に思う気持ちが必要です。仁の中の仁がなくして、仁の中の義もないのです。これはとても身につまされる内容です。

兄に従うのは義である。心から兄を愛するのは、義の中の仁であり、常に兄を尊敬するのは、義の中の義であり、徐行して年長者の後からついていくという節文があるのは、義の中の礼であり、良知のはたらきによって、誰でも兄を敬うことを知っているのは、義の中の智であり、嘘偽りなく兄に従っていくのは、義の中の信である。

兄に従うのが義であって、兄に従わせるのではありません。また兄は従うことを知っていなければならないし、従われるような兄でなければならないのです。もちろん、この意味は、自分に兄弟がいるとかいないとかは関係ありません。誰でも兄を敬うことを知っているのは義の中の智と言っており、兄弟のある無しで理解できないということではないのです。

賓客を敬うのは礼である。丁重にお迎えしようという心が生じるのは、礼の中の仁であり、接待が宜しきを得るのは、礼の中の義であり、行儀作法に節文があるのは、礼の中の礼であり、賓客への対応が乱れないのは、礼の中の智であり、嘘偽りなく賓客を敬うのは、礼の中の信である。

 

意外と礼の概念が難しいのですが、ここではやはり形式ではなく思いやりとしての礼と考えてよいのでしょう。丁重に迎えよう・宜しきを得よう・対応が乱れないようにしようというそれぞれは形式だけのことを言っているのではなく、心遣いに重点があることでしょう。

 

事柄の是非を明らかにするのは智である。是を是とし、非を非とすることが懇切丁寧なのは、智の中の仁であり、是を是とし、非を非とすることが宜しきにかなっているのは、智の中の義であり、是を是とし、非を非とすることが節に中っているのは、智の中の礼であり、是を是とし、非を非とすることが一定しているのは、智の中の智であり、是を是とし、非を非とすることを実行するのは信である。

 

是是非非とはいうけれど、それを丁寧に言うことを心がけなければなりませんね。そして一貫性も持ち合わせていなければなりません。もちろん、口先だけではなく態度・行動として言行一致が求められるのも当然ですね。信頼のためにそこまで考えが及ばなければなりません。

 

言ったことを実行するのは信である。発言が天理の公に由っているのは、信の中の仁であり、発言が天理の宜しきを得ているのは、信の中の義であり、発言が節に中っているのは、信の中の礼であり、発言に条理があって乱れていないのは、信の中の智であり、発言に嘘偽りがないのは、信の中の信である。

 

信用という言葉が希薄な時代になったというほど長生きしているつもりはありませんが、なんとなくそう思います。信用が大切なことは説明がいらないと思います。それが2000年以上前から言われていた本質です。言葉それぞれの定義が必ずしもすべてを表現しているわけではないのですが、信といえば「言ったこと実行すること」などと端的に答えられるように一つの答えとして知っておくことは重要なことだと思います。

 

実際、わかっていそうな言葉ほど説明に苦慮したり、言葉だけの理解で終わることが多いですからね。

 

さいごに

 

易経でも元亨利貞が元に集約されたり、五常で仁に集約されたりする説明が多くあります。それでも、実際にはやはり一事が万事なので、個別にわかったほうが全体がよくわかるようになります。東洋医学とか東洋思想は歴史があるぶん、理解に苦しむ場面もありますが、それなりに論理的な展開があって、理解してしまえばこれほど強力なものは無いと思っています。

 

それを少しでも早く理解する必要がありますね。

 

なんせ膨大な量なので。

 

 

そして、そのためには疑問に思う必要が特に大切で「知っているから覚えておこう」から一歩進む必要を感じます。とくに論語などでは仁の理解と解釈が多く語られますが、それだけではなく五常まで視点を広げたほうが理解が進むと思います。あくまでも理解のひとつ、解釈のひとつなのですが、それでも何もわからないよりはよっぽど有益なお話しが多いです。

 

もちろんポジショントークなのですが、歴史的なこともあり儒学が基軸で展開されてきた経緯があるのです。だからこそ、東洋医学といえども儒学の理解も必要なのではないかな?と個人的に思っています。

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