中堅鍼灸師のマツハリ先生と健康マニア宇宙人のキュウタロウ君のドタバタ鍼灸問答です。わかりそうでわからない、鍼灸の世界を垣間見てみましょう!
#10 日本での鍼灸の歴史(前)
キュウタロウ : 今回は鍼灸の日本での歴史についてだね。
マツハリ先生 : なるべくサラっと行くけど、長くなったら次回にしようか。
キュウタロウ : そうね。基本的にマツハリ先生は余談が多いものね。楽しいんだけど。
マツハリ先生 : よし、じゃ行くよ。伝承記録によれば三、四世紀に朝鮮半島の医術が伝来し、七世紀初頭からは中国大陸との直接交易することによって中国医学を学んだとされているんだ。
キュウタロウ : 確か、仏教や貿易と同じルートだよね?
マツハリ先生 : そう考えていいんじゃないかな。ちょうど、日本が中国や韓国という大陸から学んだ時期なんだ。
キュウタロウ : そういえば、中国もインドやチベットの文化に学んだ時期があったって言っていたもんね。
マツハリ先生 : よく覚えていたね。文化っていうのは、影響を受けたり、与えたりする。そして、その土地独自に進歩していくこともあるんだ。
キュウタロウ : 日本語もそうだよね?
マツハリ先生 : 日本語というか、漢字やひらがな、カタカナのことが言いたいんでしょ?
キュウタロウ : そうそう。日本の文字ってこと。
マツハリ先生 : この発明はすごいことだよね。
キュウタロウ : そのすごさは別の機会に話してもらうことにして…。
マツハリ先生 : そうだね、次に行こう。 日本の医学は十六世紀頃までは各時代の中国医学をもっぱら模倣していました。
キュウタロウ : あらら、いっきに飛んだね。
マツハリ先生 : うん。大陸の文化がある程度、入ってきたらそれを日本国内で活用している期間だったのかもしれないね。文化の咀嚼というか、技術の国内伝播というか。
キュウタロウ : たくさんの文化が入ってきたんだから、すぐに次の文化っていかないものね。
マツハリ先生 : ようやく十六世紀以降に日本の医学は独自の方向へと歩み始めたんだ。
キュウタロウ : どんな進化なんだろう。
マツハリ先生 : 田代三喜という人物が明に渡り、金元四大家のひとり朱丹渓の学説を筆頭として張仲景、孫思バク、李東垣などの諸説を折衷した医学体系を整えたんだよ。
キュウタロウ : たくさん勉強したんだろうね。
マツハリ先生 : それはそうだろうね。ちなみに、田代三喜さんは、私の生まれ故郷からそれほど遠くない埼玉県越生町ってところに住んでいたんだ。一里飴っていう飴を作ったんだよ。
キュウタロウ : それだけがんばった田代三喜さんはさぞ活躍したんだろうね。
マツハリ先生 : 実は三喜は帰国後、関東の外へ出ることがなかったんだ。だから当時の最先端の医療水準であっても天下に流布することはできなかったんだよ。
キュウタロウ : う~ん、残念。
マツハリ先生 : その遺業は門人、曲直瀬道三によって天下に広まることになるんだ。京都の生まれである道三は二十二歳のときに栃木の足利学校へ遊学したんだよ。そして当時最新の医学知識をもって活躍していた田代三喜と出会うわけさ。
キュウタロウ : 足利学校って聞いたことあるな。観光地図で見たんだっけ?
マツハリ先生 : 足利学校は日本最古の学校なんだ。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府だったんだよ。今でも名所旧跡として観光客が訪れるよね。
キュウタロウ : 今で言う、東大ってことになるのかな。最高学府ってスゴイね。
マツハリ先生 : 道三は三喜の医学の奥義を得て京へ帰るんだ。そして正親町天皇をはじめ、当時の貴族、武将など有名人の多くに引き立てられ、また多くの弟子を抱えるまでになったんだよ。
キュウタロウ : 有名人の治療をすれば注目を浴びるだろうね。特に道三は知識も経験もエリートだから文句なしだもんね。
マツハリ先生 : 道三は李朱学派の単なる導入だけではなく日本の実情に合わせたという点が当時の医学界としては革新だったんだ。
キュウタロウ : いろいろな偶然とか縁とか、勉強や努力なんかが合わさっているんだろうね。
マツハリ先生 : 江戸時代に入ると日本の鍼灸はさらに独自の技術を開発したんだよ。
キュウタロウ : 江戸時代っていうのは、政治的にも安定期になるから文化も花開きやすかったっていうものね。
マツハリ先生 : 江戸幕府は目の不自由な人々の職業政策として管弦や按摩、鍼灸をとりあげ検校、勾当、座頭などの官位を認めたんだ。
キュウタロウ : 職業政策とは言うけど、福祉政策だね。
マツハリ先生 : 実は後で話すことにつながるけどこの福祉政策が日本の鍼灸の未来を救ったって考えてもいいんだろうね。
キュウタロウ : その福祉政策によって恩恵を受けた人がいるんだね?
マツハリ先生 : まずこの人だ。五代将軍綱吉のころ、杉山和一という検校は現代によく見られる管鍼法を発明した。この刺法は筒を使うことにより、より細い鍼を痛みを与えず刺すことができるという画期的な技術の進歩となったんだよ。つまり、筒をつかってトントンと鍼を刺す方法は日本独自の方法だったんだよ。
キュウタロウ : 中国がすべてってわけじゃないんだね。
マツハリ先生 : 簡単に言うと、ラーメンとか仏教とかと同じで、発祥と発展は別ってことだろうね。
キュウタロウ : 日本人って、技術や文化、職業に向かい合って熱心に磨いていくっていうのが得意なんだろうね。
マツハリ先生 : さらに江戸中期になるともっと古医学を重視するという考えが起ったんだ。当時の儒学の復古思想とあいまって古方派という流れが出来たんだよ。
キュウタロウ : 新しいことを求める人たちと古いことを守る人たちってことで意見に違いがあるのかな。
マツハリ先生 : 古方派には名古屋玄医や後藤艮山、山脇東洋という人物がいたんだ。それに対して従来の道三流は後世派と言われているんだよ。
キュウタロウ : いままで日本の医学をひっぱってきた後世派が悪いってことじゃないんでしょ?
マツハリ先生 : 後世派が悪いというよりは、長い間によってマンネリというか本来的な価値が伝わらなくなったんじゃないかな。
キュウタロウ : 曲直瀬道三がいくらエリートでも、数百年もあとの人まで、考え方を伝えるのは難しかったんだろうね。
マツハリ先生 : そこで、形骸化した医療に疑問を持った人と復古思想という時代的な背景から異議を唱える人がでてきたってことだね。
キュウタロウ : それが古方派の人たちだね。
マツハリ先生 : 古方派の隆盛のなかで吉益東洞は特異な存在だったんだよ。当時から賛否両論があり古方派はもとより日本の医学に大きな影響を与えたんだ。それまでの医学は古代中国の治療法に倣い脈を診たり陰陽や五行という理論を駆使し治療方針を決めていたんだ。だけど彼は病気は現れている症候によって治療し、陰陽や五行を排し、脈さえも診なかったっていうよ。
キュウタロウ : このままじゃいけないって思ったんだろうね。
マツハリ先生 : いつの時代でも気を抜いちゃうと形骸化してダメになることは多い。そのなかでも極論というものは人々の注目を浴びるんだよね。吉益東洞さんは、いくら陰陽五行という考え方や脈診という方法を否定的に考えてはみたものの、それに代わる技術も開発していたんだ。例えば腹によって病気を診る腹診をあみだしたんだよ。だから、やみくもに思いつきで従来の方法を批判しているわけじゃないんだよ。
キュウタロウ : いつの時代も閉塞感が漂うタイミングがあるんだね。
マツハリ先生 : それによって古方派は後世派をしのいで日本での医学の主勢力となり幕末まで及ぶことになるんだ。
キュウタロウ : 守ることと変えること。いつの時代でもテーマなんだろうね。
マツハリ先生 : 十六世紀後半以降、西洋医学が日本に入ってきたんだ。当時はオランダとの交易しかなかったので輸入された医学もオランダ医学だったわけさ。当時はいままでの日本の医学を漢方、そしてオランダから来た医学を蘭方と呼んで区別していたんだ。
キュウタロウ : これまた波乱の予感だね。
マツハリ先生 : 誰しもそう思うよね。十八世紀には杉田玄白らの『解体新書』が刊行され蘭方は勢いづき十九世紀頃には従来の医学である漢方と対立するまでになったんだよ。それは古方派対後世派という対立のように、漢方対蘭方っていう構図になるわけさ。
キュウタロウ : 勉強する人も大変だろうね。漢方がいいのか、蘭方がいいのか。古方派がいいのか後世派がいいのか。
マツハリ先生 : もう、ここまでくると運じゃないかな。冷静に勉強してから選ぶというより、このような違いから学ぶチャンスっていうのはそうそうないだろうからね。
キュウタロウ : ここからどうなったの?
マツハリ先生 : 明治維新以後は日本政府の富国強兵政策とこれに伴う西洋文化一辺倒の社会風潮のもとに医学の主役は西洋医学に変わっていくわけだよ。
キュウタロウ : 国としても激動の時代に突入していくんだね。なんかドキドキしちゃう。
マツハリ先生 : ここまでが鍼灸の明治までの歴史だよ。
< 11話へ つづく >
コメントを残す